広島 平和記念公園(原爆ドーム)で平和への祈りを捧げる ~ 山口・萩の旅(その3)
8/29からの3日間、山口・萩の旅。
前の2記事でも少し触れたが、目的地へ向かう途中でどうしても寄っておきたかったところが広島だった。
もともと萩への旅を決めた時点では広島に立ち寄ることまでは考えてはいなかった。距離的にも飛行機を使うところだなと思っていたというのがある。
ところが、空港から萩までの最寄の空港を見てみると山口宇部空港が一番近いのだが、それでもバスを乗り継ぐと2時間ぐらいはかかる。
これなら新幹線を使って最寄り駅の新山口まで行ってももそれほど大差はないし、4年半ぶりに500系新幹線も見てみたいというのがあって行きは新幹線で行くことにした。
新山口までどの列車を使おうか時刻表を見てると、そこで目に入った文字に釘付けになった。
『広島』…。
私は、生まれてから44年間広島には行ったことがない。
今までなかなか行く機会に恵まれなかったが、今を生きる日本人の一人として一度は訪れてみたい場所であった。
いろいろと思うところがあっての今回の旅。こうして広島を通るのも何かの縁かもしれない。
当初考えていたプランを変更して、わずかな時間ではあったが広島へ訪れる時間を組み込むことにした。
飛行機と違って、目的地まで途中下車可能なのが電車の旅のいいところだ。
8月20日に豪雨による大規模な土砂災害が広島市北部で起きて、大勢の方が亡くなられてこの時点では行方不明の方もおられて救助活動が難航しているといった最中の訪問はどうなのかと言う気持ちもあったのだが、このタイミングを逃すと次はいつになるのかわからないので、少なくとも一箇所は立ち寄りたいという気持ちであった。
ここまで読まれていてもう殆どの方がお分かりかと思うが、その訪問したい場所というのは、
『原爆ドーム』と『平和記念公園』。
先に銀山町のお好み焼き屋『八昌』で早めの昼食を済ませたあと、路面電車で『原爆ドーム前』移動。距離的に歩いていこうかとも考えたが滞在時間が少ない上『八昌』で予想より時間を使ってしまったので路面電車で移動することに。結果的に思ったより距離あったので路面電車で移動して正解だった。
そこから横断歩道を渡ってすぐのところに『原爆ドーム』(当時の広島県産業奨励館)がある。
ここに来るまでの間、初めて来た広島の一部の街の印象でしかないが、賑やか…というかどことなく騒がしい街だなというイメージだった。交差点を右折している車が横断歩道を渡ってる歩行者に対してクラクションを鳴らしたり、歩行者は車に罵声を浴びせたり…まぁ、これに限らず車は我が物顔で走っていて意味不明のクラクションは随分多かったなと(^^;;
そんな雰囲気も、この平和記念公園に足を踏み入れた途端、辺りは別世界のように静寂に包まれた世界だった。
この原爆ドームは、1996年に世界遺産に登録されている。世界遺産の中でも『負の世界遺産』と呼ばれ、我々人類が犯した悲劇を二度と起こさないため後世に伝えるための大切な地球上の記憶なのだ。
昭和20年8月6日。この原爆によって20万を超える生命が失われた。その時の状況は平和な世の中に生きる私など想像もつかないが、考えるのも恐ろしい状況であることは難くない。
決して人類はこの日があったことを忘れてはならない。
動員学徒慰霊塔。第二次世界大戦中に労働力の不足を補うため、勤労奉仕に動員され戦禍に倒れた学徒と、原爆の犠牲者を含めた学徒の霊を慰めるために作られたものだ。これからの日本を担う数多くの若者も戦火の犠牲になった。さぞかし無念の思いだったに違いない…
先程までは少し晴れ間が覗いていたが、ここに来てポツポツと振り出してきた。
『原爆の子の像』。『サダコ』の物語の佐々木禎子さんをはじめ原爆で亡くなった多くの子どもたちの霊を慰め、世界に平和を呼びかけるために作られた。
原爆の子の像に捧げられる、数多くの千羽鶴。雨に濡れてしまわぬよう屋根付きの折鶴台がこのようにある。
いつまでも子供たちが平和で健康に過ごせる世の中が続くよう願いを込めて…
そして原発死没者慰霊碑。修学旅行の団体だろうか?多くの学生達をはじめ、外国人観光客まで多くの方が祈りを捧げていた。
平和都市として再建することを祈願して設立した原発死没者慰霊碑。平和の灯は消えることがあってはならない。
広島平和記念資料館。立ち寄りたかったのだが、残念ながら時間切れ。またの機会に訪れよう。
滞在時間が限られており資料館を初めとして、公園内を全て見ることはできなかったが、原爆で犠牲になった方々に祈りを捧げることができたことが何よりだった。
戦火の…原爆の傷跡を現世に伝える原爆ドーム。そしてこの平和記念公園の一帯は静寂に包まれ、文字通り平和で穏やかな時間が流れていた。
月日は流れ、だんだん当時の時代を知る者はだんだんと少なくなってきている。これから20年、30年と経つにしたがっていずれは当時を知るものはいなくなるだろう。
人間は忘れる生き物である。そして過ちを繰り返す生き物である。だからこそ戦争を、原爆を知らない我々がこうして残されたわずかな記憶やメッセージを受け取り、いつまでも平和な世の中でいられるよう、それを後世に伝えていかなくてはならないと。
そんなことを考えながら、広島の街・そして平和記念公園に別れを告げて萩へ向かった。
また、改めて広島の地をゆっくりと訪れるようにしよう。その時も変わらず穏やかな時間を過ごせる事を願って…
- 原爆ドーム
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