母親に頼まれて カメラ店の『店頭セルフプリント』に同行して思ったこと
今日は朝早くから母親より連絡が入り、川崎駅のヨドバシかビックカメラに同行して欲しいとの依頼が。
どの用事かというと、デジカメに撮ってある写真をプリントしたいがプリントの仕方がわからないから教えて欲しいとのこと。
私が所有しているコンパクトデジカメ(IXY DIGITAL 910 IS)を先日、母親に譲ったのだが、プリントの仕方がわからないからその時教えてくれと頼まれていたのです。
自分で鑑賞する以外にも一緒に写っている友人にも渡したいとのこと。
私やもっと下の世代の人達なんかは、取った写真(画像データ)をそのままSNS経由でシェアしてしまうのが当たり前になっているので、わざわざプリントすることなんか…と考えてしまうのだが、私の親の世代であまりデジタル機器に馴染みのない人達にとって、写真というものは現像されたモノで鑑賞するという感覚がまだまだ強いらしい。
私も川崎駅のほうに仕事の用件をいくつか済ますため出る予定だったので、昼食も兼ねて一緒に出掛けることに。
行ったのはラゾーナ川崎のビックカメラ。
なんのことはない、店頭セルフプリント機を使ってプリントするだけのこと。
- カメラからSDカードを抜いて、端末のガイダンスに従いSDカードを差し込む。
- プリントサイズ(L版かL2版)かを選択し。
- SDカードに保存されている、写真が全て表示されるのでそこから印刷するデータを選択。
- 枚数を入力して、確定すればあとはプリントされるのを待つだけ。
- プリントが終わったら、SDカードを抜いてカメラに戻す。
時間にして5分程度、これだけのことだ。
で、本人の手ごたえは如何に?と確認したら
「簡単なのはわかったけど、とりあえず一回では怪しいから今度来たとき一人でやってみるので立ち会って欲しい」と言われた。
やはり触りなれないものだから仕方がない。
それでも仕上がりも綺麗で、すぐにプリントできるので「こんなに簡単にできるのか!」と驚きと納得の表情。
あまりに鮮明に写るので、自分の顔を見てトシは隠せないものだなと若干ショックを受けていたが…(笑)
ITは『知っている人』だけのものでいいのか?
本当に今は便利な世の中だ。
この写真のプリント一つにしても、昔はフィルムを使ったカメラで撮り終ったフィルムを写真屋さんに持っていって現像して貰っていたのだ。
フィルムの現像も早くても数日はかかってた。
その撮ったフィルムも光に当てないように、保管には気を使うものだった。
そして、もちろんのこと現像するまで撮った写真が思い通りに撮れているかはわからない。
現像された写真を見て、ガックリすることも多々あった。
それが今はデジタル化して、撮った写真はその場で確認することができる。
失敗したり、今ひとつ気に入らなければその場で削除して撮り直すことができる。
今回のプリントのように、データさえ持って行けばプリントアウトもその場で簡単。
自宅にインクジェットプリンターやフォトプリンターがあれば、わざわざ店舗まで出向かなくても自宅でプリントすることができる。
フィルム時代の時は、人に配る時一度現像してからそれを見せて、欲しい写真の枚数を募ってから焼き回しに出すということをしていた。
それがいまや、デジタル化とインターネットの普及で、SNS上でデータをすぐその場でシェアすることができる。
そのデータをプリントするもしないもシェアした相手に任せることができる。
本当に20年ぐらい前から考えると信じられないくらい便利になった。
わずか20年ぐらい前の話である。
その一方でテクノロジーの急激な進歩に、それを使う人間がついてこれなくなってきたのも事実。
私の母親もその一人と言っていい。
基本的に機械やデジタル関連の操作とかは、携帯の最低限の機能のように自分で使えないとどうにもならないことを除いて私に任せきりになっていた。
同居している時はそれでもよかったが、今は別々で生活(といっても近所だが)している以上そうも言ってられないこともあるだろう。
そして一番思うところは、これだけ便利になってきているのにただ「デジタル」というアナログで生活してきた人にとってなじみが薄いという理由で、その先にある楽しみやそこから広がる可能性を知らずにいるのは本当に勿体無いことだと思う。
今回の店頭プリント一つにしても、特に難しいことはなく2度3度経験すれば十分覚えられるものである。
世の中にはこういった、誰でもできるちょっと知っておけばとても便利というものが溢れかえっている。
だが、デジタル漬けになっている我々が当たり前のように知っていることを知らない人、また「得体の知れない」ことに対する抵抗感や面倒くささで避けている人達もまだまだ世の中多いのも事実だと思います。
私もITサービスに携わる人間の一人として、意外ともっと身近なところでその役割を果たすことができるのではないか?と思った一日でした。